2013年9月30日月曜日

ほんとうの孤独とは

2週間程前に「死にゆく人の孤独について」という高山義浩氏のエッセイを朝日新聞の医療サイト、アピタルで見つけてとても共感した。

周りから孤独に死んでいくように見えても、いざ逝く当人にとっては決して孤独ではないのではないか。
「死に目に会う」ということは、患者さんのためというより、むしろその家族自身にとっての許しとなるのかもしれない。しかし、その「許し」が不完全であると家族が感じて、延命による先送りを求めることすらある。
実際居合わせた事などないのですが、とてもよく理解できます。

「目を閉じればお母ちゃんが見える」という患者さんのエピソードに、ぼろぼろ泣けてしまった。

私の母は何もしないでくれと、よく言うけれど、そうしてあげられるように、わたしも日々から許しを消化できる様、してあげられる事をしないといけない。

http://apital.asahi.com/article/takayama/2013090900007.html

以下抜粋〜

「幸福な死」というものはあるのでしょうか? まだ見えてこない課題のひとつです。ただ、医師になる前に抱いていた「多くの家族や友人に暖かく見守られ、そして静かに息をひきとる」という漠然としたイメージは、医師としての経験を重ねるうちに完全に破壊されたように思います。

人は肉体的に、あるいは精神的に苦しんで死んでゆきます。これは、どのように「死」を美化しようとも避けられない事実です。そして、私が担当してきた患者さんの多くが、いくつかの葛藤のすえ、その時を「なるべく静かに迎えたい」と考えるようになってゆきました。つまり、その時が近づくにつれて面会者を好まなくなり、とりわけ近しい人だけと過ごすようになっていったのです。

「死」とは極めて私的なものなのです。誤解を恐れずに例えるなら、「死」とは肉体による「いのち」の排泄行為であり、あるいは黄泉における「いのち」の出産行為といえます。その場面において、ときに人は苦しみ怒り、肉体の非業をさらけ出すことがあります。それはとても衆目に許せる類のものではありません。私は「死」とはもっと孤独であってもよいのではないかと思うのです。

実際、別れが来ることを自覚した患者さんは、この世から徐々に自分を切り離しながら孤独になり、その時に備えてゆきます。一気にすべてを失うことは、あまりに辛すぎるのかもしれません。だから、患者さんは仕事のことを忘れ、友人のことを忘れ、ついには家族のことすらも直視しなくなることがあるようです。

ある死を覚悟した高齢女性は、主治医である私に「子供たちはいいよ、おかあちゃんが傍にいてくれるから」と言いました。苦しそうにしている彼女を私なりに気遣って、「御家族を呼びましょうか」と声をかけたときのことです。もちろん、80を過ぎた彼女の母親はいにしえの人となっています。しかし、彼女は「目を閉じれば、おかあちゃんが見える」と言って、ずっと目を閉じていました。それを聞いて私は、彼女が彼岸へと渡りはじめていることを理解したのです。彼女は病室に独りきりに見えましたが、しかし、そうではなかったのかもしれません。

援助の手も差し延べられないまま死を迎える人、いわゆる孤独死、そういう人がおこらぬように私たちは注意深くあるべきでしょう。しかし、「ひとりでそっと死にたい」、あるいは「死にゆく姿をさらしたくない」という患者さんの気持ちがあるとすれば、それもまた尊重してゆきたいものです。だからこそ、私たちは「多くの家族や友人に暖かく見守られ、そして静かに息をひきとる」という定型的なイメージにとらわれないようにしなければなりません。

もちろん、こうした考え方はすこぶる患者さん御本人に偏ったものではあります。死に逝く患者さんの問題はいずれ終結するのですが、肉親を失う家族の問題はその後も継続します。こう考えると「死に目に会う」ということは、患者さんのためというより、その家族自身にとっての許しとなるのかもしれません。しかし、可能であれば、死の直前に「許し」のための儀式化した看取りが起こらぬよう、もっと早めに家族とのしっかりとした対話があるといいですね。ときに、その「許し」が不完全であると家族が感じて、延命による先送りを求めることすらあるからです。

Tokyo Photo

9/27金。
TokyoPhoto2013へ行ってきました。
今回は増上寺。
ParisPhotoの1/6位の規模かしら…ギャラリー数減った様な気がします(昨年比)。
覚え書きということで、
会場mapから出展していたギャラリー名、

好きだった写真と作家名、
そのギャラリー。


↑René Burri
40×70cm, Price: €4200
Gallérie Esther Woerdehogff, Paris


↑Erik van der Weijde
  30×40cm, ¥86,000
  Ten Haaf Project, Amsterdam

くそぅー、かっこいい。
あー、わたしも頑張ろう!



2013年9月21日土曜日

to Niihama

やはり、見ておかないと。
と思い、
仕事終わった足で向かいました、
愛媛県新居浜市で開催の、
白岡順 先生の個展へ。
http://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/detail.php?lif_id=24531

到着が遅くなるのでまずは岡山でストップし、宿泊。
偶然にも、写真のお仲間さんが新居浜へ向かっているのをface book経由で知る。
連絡を取り、岡山で合流し夕飯を共にする。その夕飯が偶然にも、またとても美味しいお魚のお店だった。日付け過ぎて帰宿。
ホテルもなかなかシックかつ清潔、お値段もお手頃で快適で、朝ごはんも無料でついて言う事なかった。

この旅も、幸先上々!

次の日の朝、しおさい号で新居浜へ向かう。夜でないから、海の景色もちらほら見えて、瀬戸大橋を渡る時も楽しい。

お仲間さんは、Jun Shiraokaフリーク(自称おっかけ)なので、先生はこんなシチュエーションで撮ってたのかなと感じつつ、列車の前から見える景色に釘付け。
なかなか面白かった。

新居浜からタクシー約5分。
60点もの写真を鑑賞、堪能。
白岡先生に教わってる人の写真は、先生の写真に似て来ると、よく周りは言うけれど、
誰にも真似なんて出来ないと思うし、黒や白のトーン含め、絵柄も構図も比較する事自体、そもそも違うと改めて思う。
勿論、大きな影響を受けるのは間違いないのですが。

そうこうしてたら、もう1人お仲間が一旦向かった高松から新居浜に戻って来た。
その後ワークショップが始まり、先生は大忙し。希望者が予定人数を超え、ワークショップは2回行われることに。
なのに、事務所でお茶するのに私達に声をかけて下さったり、どなたにも気を遣われるところは先生らしい。
(先生とお仲間2人)

なんだか、当てもない旅がとても有意義なものになり、ほーんとに楽しかった。

先生の写真展を、この目で見ることができて、本当に良かったと思います。

2013年9月9日月曜日

faire la quisine

フランス語で知り合ったお仲間に料理を教わりつつ、美味しい食事を頂きました。
いろんな話をし、
楽しくて、それでいて刺激的でした。

こんな、あんな、
いい年の取り方を、したいと思わせてくれる方々に出会える事に日々感謝です。

嫌味が全く無く、何というか、心に余裕がある様に見えます。
歳を経ても向上心があって、両方のお母様の介護もしてて、クラスで頭と口使って難しい時は疲れたぁ〜と素直に言って、困った顔して笑う。

とにかく、素晴らしいひとときでした。
これも復習して、何度も作って自分の料理のレパートリーに取り入れて、我が家にお客様が来た時に備えたい。

じゃなきゃ、うちに遊びに来るといつも鍋だもんね(これはこれでとても楽しくて美味しい)。

濃い目のアールグレイと絞ったグレープフルーツジュース

コーンスープ、
プルーンとゴルゴンゾーラの胡桃和え、
帆立を和えものをチコリと、
ミニトマトのタブレ(クスクス)詰め、
ケッパー

アサリに生姜、あさつきと赤唐辛子with甘酢かけ

梅子肉(豚肉の梅味からめ)

鮭と白髪葱にさいごに熱した胡麻油ジューとかける

四種野菜の辛味噌がらめ


土鍋で炊いたご飯、ヘーゼルナッツ
お皿にとって、
つるかめのお箸で頂きます。